萩往還トレッキング 2016.5.23

萩史跡めぐり編

はぎおうかん 山口県萩市



降水確率が大きい日を選んで萩往還を歩いてみようと思っている。ホームページ歴史の道萩往還(http://hagi-okan.yamaguchi-city.jp/)のルートマップに従い5回に分けて歩く計画である。

そのプロローグとして、萩の田町のメインストリートであった御成道周辺の史跡めぐりをあらためてしてみることにする。地元の歴史は知っているようで知らないことがほとんどである。新たな発見があるかもしれない。
車をアトラス萩前の駐車場に置き歩き出す。今日は気温が高く日差しが強いのでバテでしまいそうだ。 田町のアーケードの通りは、昔にくらべかなり寂しくなってしまった。以前は萩の中で 一番賑やかな通りだった。石川文房具店、しらがね書店、ツチヤ(洋服店)、音楽堂(レーコード店)、八木百貨店・・・いろんな思い出がある。
三十数年前は歩いているとぶつかりそうなほど人通りが多く、知り合いと会うこともしばしばであった。アーケードの通りに掲げてある萩往還の詳しい解説を見る。御成道と呼ばれるこの通りは萩城跡まで続き、萩往還の始まりの道になる。数十メートル毎に萩が輩出した幕末の維新の志士達の小さな銅像がある。

アーケドを抜けしばらくすると萩城下町の案内板がある。左に折れ江戸屋横丁に入り、まず木戸孝允の旧宅に入ってみる。
木戸孝允(桂小五郎)は生まれて江戸に出るまでの20年間この家で過ごしたという。敷地は広く豪邸である。入館料は100円であるが、他の八つ史跡も入ることが出来る310円の共通券を購入する。
今、萩まちじゅう博物館2016-2017スタンプラリーというのやっていて、9つの史跡になかで4つ以上の史跡にスタンプを集めて応募すると萩の特産品が当たるという。このラリーのコースの史跡を回ることにする。

若いころ、一時期、司馬遼太郎の小説にのめり込んだことがある。「世に棲む日日」、「十一番目の志士」、「竜馬がゆく」、「花神」、「坂の上の雲」・・・。面白いので手当たり次第に読み漁り、「司馬史観」にだいぶ影響を受け、司馬遼太郎の小説で幕末の歴史を知った。
改めて考えてみると、地元の偉人が活躍した幕末から明治にかけての時代の流れの中で、吉田松陰が育てた志士たちの勢力を中心とした長州藩の過激ながむしゃらさがなかれば、明治維新は形の違ったものになっていただろう。もちろん西郷隆盛、大久保利通を中心とした薩摩藩の討幕勢力の存在も大きかったと思うのであるが・・・。
更に反目し合う長州藩と薩摩藩を結び付けた坂本龍馬の存在。武士が支配する旧来の封建制度を崩した明治維新というのは本当の革命だったと思う。

京都での志士活動において幾多の危機を切り抜けた桂小五郎は、幕府による第一次長州征伐の後、元治の内乱に勝利した正義派と呼ばれる討幕グループのリーダー格となり、長州藩の首脳としてそのかじ取りを担った。
明治政府成立後はその中心人物の一人として現代日本の基礎を作った。剣術は江戸三大道場の一つ、練兵館・斉藤弥九郎道場(神道無念流)の塾頭になるほどの腕前があったが、けして真剣で戦うことは無く、その能力を新選組等の敵からから追われたときに逃げるということに使ったという。だから明治まで生き延びることが出来たのだと。
当時としてはかなり大柄な人であった。旧宅内にある木戸孝允の写真を見ると何かしら当時のイメージが湧いてくるようだ。

次に藩医で蘭学者であった青木周弼旧宅を見学する。内部は改修されて畳も新しい。 菊屋横丁の通りに入り、円政寺のすぐ先の高杉晋作誕生時地を見学する。
吉田松陰の教えに突き動かされた高杉晋作は、禁門の変で志し半ばに逝った久坂玄瑞とともに維新を実現させるために重要な役割を果たす。最大のハイライトは、第一次長州征伐の後、幕府に恭順するという保守的な俗論派と呼ばれる勢力に長州藩の大勢が傾きかけたとき、下関の功山寺で挙兵、破竹の勢いで俗論派勢力を圧倒し、再び長州藩を討幕の方向に向けるという歴史的な転換点をつくった。その後の第二次長州征伐(四境戦争)で長州藩は幕府勢力に徹底抗戦する。高杉は、海軍総督として小倉口を受け持ち幕府方を圧倒する。行動を共にした伊藤博文曰く「動けば雷電の如く発すれば風雨のごとし・・・!!」。風雲児高杉晋作は、行動力の塊だったのである。しかし第二次長州征伐のさ中、結核を病み自分の役目を終えたかのように28歳という若さでこの世を去る。屋敷内には高杉晋作が生まれたときに使われた産湯の井戸がある。玄関の畳の上に置かれている高杉晋作の妻子雅子と東一の写真が何故か印象的だ。菊屋横丁には他に田中義一誕生地の石碑がある。

次に再度御なり道に出て久保田家の屋敷を見る。久保田家は近江から萩に移住してきた商人で酒造業を営んでいたという。屋敷は立派な造りで使われいる材木は太く頑丈そうだ。 御なり道のはずれにある田中(義一)大将の銅像を見て再び、御なり道を経てアトラス 駐車場まで戻る。

車で萩の三角州の南端にあるたいこ湾の駐車場まで移動し、ラリーコースになっている川島地区の桂太郎の旧宅を見学する。桂太郎は長州藩の上士の出身で「花神」大村益次郎の訓練を受け四境戦争(第二次長州征伐戦争)に従軍し、石見口(島根県境)の戦いに臨む。 司馬遼太郎の小説「翔ぶがごとく」「坂の上の雲」に、明治時代の始まりから日露戦争にかけての出来事が詳しく書かれている。
幕末当時、奇兵隊総監として長州藩の内戦を戦い、そして戊辰戦争の激戦を経て明治になり、山縣有朋は暗殺された大村益次郎の後継者として台頭していく。
実務能力に長けた山縣は、一時汚職かかわり失脚したがその手腕の高さにより再度復活し日本陸軍の基礎を築いていく。その後陸軍を中心とした長州閥が昭和初期まで続いていく。陸軍で出世を遂げた桂太郎は、萩出身の総理大臣の一人として長期政権を維持し、日露戦争を辛うじて勝利に導く。

再び車で移動して河添の橋本川沿いにある公園の駐車場に車を停め、旧田中邸を見学する。 旧田中邸は、萩に夏みかんの栽培を広めた小幡政高が建てその後、大正時代に田中義一の所有になったという。大邸宅の中には田中義一に関する展示がある。田中義一は、萩出身 の3人目の総理大臣である。展示してある政府内閣の集合写真を見るとかなりの長身で周りの大臣達が小さく見える。田中義一の家は、藩主の御六尺(かごかき)で駕籠を担ぐ役目として長身でなければならなかったのである。陸軍士官学校、陸軍大学へて陸軍に入りロシアに留学してロシア通になり、その後の日露戦争においては児玉源太郎の参謀として活躍した。陸軍大将にまで上りつめ、元帥になれるほどの才覚と運に恵まれたが、陸軍から政界に転身し、政友会の総裁となり1927年に総理大臣となる。田中の死後、幕末期から保つていた長州閥の勢力は急速に衰えて行く。

久しぶりに萩の城下町を歩いてみると、幕末期から明治にかけて活躍した偉人が多くいることにあらためて気づく。騒然、混沌とした幕末期は、戦国期と同様に歴史の転換期として日本史の中で異彩を放つ一時代であった。ペリー艦隊の来航、開国、攘夷、幕末戦争経て明治へと時代は大きく変わる。国を思う有能な志士達の多くは途中で非業に斃れ、生き残った者たちがその事績の恩恵を享受し近代日本を作って行く。

高杉晋作や久坂玄瑞が明治まで生き延びていればどんなことになっていただろうか・・・。休暇も終わりに近づいてきたが、萩往還を歩き、郷土の先人達が辿ってきた道を歩き、郷土の新しい発見をしてみたいと思う。



唐樋札場跡


御成り道と呼ばれていた田町の通りには勤王の志士の小さい銅像がある。


萩城城下町

木戸孝允旧宅
← 木戸孝允旧宅
木戸孝允は、天保4年(1833)6月26日、萩藩医和田昌景(石高20石)の長男 として、ここに生まれた。8歳で石高150石の桂家(末期養子のため石高90石)の 養子となったが、養母死亡のため実家で成長し、江戸に出るまでの20年間をこの家で 過ごした。初名は桂小五郎、33歳の時藩命により木戸貫治、翌年木戸準一郎と改めた。 実名は孝允。
17歳の時には藩校明倫館で、吉田松陰に学んだ。30歳の頃から藩の要職につく一方、 京都におもむいて国事に奔走した。慶応2年(1866)には、坂本龍馬の仲介により 薩摩の西郷隆盛らと討幕の一大勢力となる薩長同盟を結んだ。 明治新政府では特に五箇条の御誓文の草案作成に参画し、版籍奉還や廃藩置県の実現に 力を尽くした。これらの功績により、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と 呼ばれた。明治10年(1877)5月26日、西南戦争のさなか、45歳で京都で病死。 この旧宅は、大正15年(1926)に子孫の木戸幸一氏より当時の萩町へ寄贈されたもので、桟瓦葺二階建。木戸孝允が誕生した部屋や庭園など当時の姿をよく残しており、昭和7年(1932)に国の史跡に指定された。(現地解説)
国指定史跡 萩城城下町
指定日年月日 昭和43年1月10日

指定区域は萩城三の丸、中の総門から東に続く旧御成道である呉服町の通りと、これに 直交する三筋の小路(東から江戸屋横町、伊勢谷横町、菊屋横町)及びこれらの小路の 南端が直交する道路に囲まれた範囲並びにその周辺一部。呉服町通りには、萩藩御用達 の菊屋家や幕末の商家久保田家などがあり、小路沿いには中・下級の武家屋敷で、史跡 木戸孝允旧宅、青木周弼・周蔵の旧宅(江戸屋横町)などがある。町筋とともに商家や 武家屋敷の家並みの配置がよく保存され、城下町の景観を偲ぶことができる。(現地解説)

木戸孝允旧宅


木戸孝允旧宅

木戸孝允旧宅


木戸孝允の書
木戸孝允略歴
木戸孝允は、天保4年(1833)6月26日、萩藩医和田昌景(石高20石)の長男 として、ここに生まれました。8歳で石高150石の桂家(末期養子のため石高90石)の養子となり、桂小五郎と名乗りました。しかし、まもなく養父母ともになくなったので、 実家で成長しました。

初名は桂小五郎、33歳の時藩命により木戸貫治、ついで木戸準一郎と改めました。 実名は孝允で、号は松菊(しょうぎく)、竿鈴(かんれい)といいました。17歳の時には藩校明倫館で、兵学門下生として吉田松陰に学んでいます。20歳の時江戸に出て、剣術や、洋式兵術、造船術、蘭学等を学びました。特に剣術は幕末三剣客の一人といわれた斉藤弥九郎の道場(練兵館)に入門し塾頭になるほどの腕前でした。30歳の頃から藩の要職につき、藩内の正義派(反幕府派)を指導し、また、京都におも むいて国事に奔走しました。

元治元年(1864)の池田事件・禁門の変によって、長州藩は苦境に立たされます。 しかし孝允は辛くも危機を脱し、慶応2年(1688)には坂本龍馬の仲介によって、 薩摩の西郷隆盛らと薩長連合を結び、情勢を立て直しました。明治以後は西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれました。情の西郷、意の大久保に対して「知の木戸」とも称されました。特に五箇条の誓文の確定に参画し、版籍奉還や廃藩置県の実現に力を尽くしました。明治4年(1871)、新政府の参議となり、そののち、岩倉使節団の全権副使として欧米を視察し、立憲体制への促進に努めました。明治8年、病を得て翌年参議を辞任し、内閣顧問になりました。明治10年の西南戦争のさなか、京都で戦争終結を図っていましたが、5月26日、「西郷、もう大抵にせんか」とつぶやきつつ京都土手町の邸で病死しました。数えの45歳でした。(現地解説)

木戸孝允(後列中央)と毛利元徳(前列の右から2番目)の写真


旧佐伯丹下家屋敷
当屋敷は、幕末安政年間(1854〜59)の描かれた「萩城下町絵図」によると、萩藩 大組士佐伯丹下(125石)の屋敷であったことがわかる。佐伯丹下は幕末期、直目付や 撫育方仕組掛、奥番頭役などの藩の要職を歴任、多年藩の財政整理や岩国吉川家との交渉に尽力した。明治5年(1872)65歳で没するまで、この家が本拠であった。 その後、安富五三郎(通称:伊勢屋)の所有になり、親戚の久原房之助が衆議院議員に立候補の時には選挙事務所になったこともある。戦時中は九州大学名誉教授の永積純次郎が住み、戦後は萩中学校長の河内才三や、第六高等学校(現岡山大学)校長の金子幹太などが住んでいた。屋敷は昔の状態がよく保たれており、映画のロケにも使われたことがある。

「直目付(じきめつけ)」・・藩士の職務等を観察する役。
「撫育方(ぶいくかた)」・・藩の別途会計を管理する役所。
「奥番頭役(おくばんかしらやく)」・・藩主の側に仕え殿中の諸事一切を統轄する役。(現地解説)

青木周弼旧宅
この家は、藩医(西洋内科)で蘭学者であった青木周弼(しゅうすけ)の旧宅である。安政6年(1859)に 建てられたものと考えられ当時の様子をよく残している。 青木周弼は、大島郡和田村(現周防大島町)の医家に生まれ、藩主毛利敬親の侍医や医学館の 館長をつとめた。日本屈指の医師として全国的にも知られ、各地から集まった多くの弟子を育てた。 また、村田蔵六(のちの大村益次郎)が萩藩に出仕したときは、親代わりとなり世話をした。(現地解説)

青木周弼旧宅

青木周弼旧宅

青木周弼旧宅


← 江戸屋横丁


円政寺内金毘羅社社殿

高杉晋作の銅像


・・・

高杉晋作誕生地

高杉晋作誕生地


高杉晋作誕生地
萩藩士高杉小忠太の長男として天保10年(1839)に生まれた。安政4年(1857)、久坂玄瑞のすすめにより松下村塾に入門し、吉田松陰の生きた教えを受けた。奇兵隊の創設、四か国連合艦隊との講和談判、下関挙兵などを行い、明治維新のために力を尽くしたが、維新の実現を見ることなく、慶応3年(1867)、28歳の若さで病死した。旧宅内に晋作の写真や書などが展示され、邸内には自作の歌碑や詩碑、産湯に使ったと言われる井戸がある。(現地解説)

杉晋作略伝
名は春風、字は暢夫、晋作は通称でありますが、最も広く知られています。また谷梅之助、谷潜蔵の変名もあり、東行、西海一狂生、東生一狂生などと号していました。天保十年(1839)八月二十日萩藩士杉小忠太、室道子(大西の出)の長男としてここ萩菊屋 横丁の宅で生まれました。幼少の頃私塾に学を習い、やや長じて明倫館に文武を学び、また松下村塾に入り松陰の指導を受けました。文久元年(1861)藩主世子の小姓役に抜擢せられ翌ニ年幕使に随行して上海に渡航する機会に恵まれて海外諸情勢をつかいみ帰朝後攘夷の急先鋒として活躍しました。

文久三年馬関の外国船攻撃にあたり自ら奇兵隊を組織し、同隊総監を命ぜられました。奇兵隊は、日本でははじめての士農工商を問わない国民的軍隊で、後にこれにならうもの続出して長州藩の反幕府勢力軍事的基盤として明治維新戦争に大きな働きをしました。ついで一時脱藩し罪をえて野山獄にはいりましたが元治元年の四国連合艦隊の馬関襲来にあたり許されて再起用され、講和条約の正使となって堂々と交渉して国土の危急を救いました。 禁門の変後、藩首脳は俗論党により占められたため、晋作は九州に亡命しましたが、時至ってふたたび奇兵隊を指揮し、長府功山寺に軍を起こし、疾風の勢いで諸地を転戦し俗論党を一掃いたしました。

第二回長州征伐を前に薩長同盟に尽力し慶応二年第二回征長軍を迎えて、全藩を指揮し、みずからは小倉口を攻めて、縦横の機略を駆使して連戦連勝しましたが、翌三年四月十四日、享年二十九歳で赤馬関に病死し、下関市吉田清水に埋葬されました。明治二十四年生前の功労に対し正四位を送られました。 (現地解説)

高杉晋作の初湯の井戸

高杉晋作誕生地


高杉晋作誕生地

田中義一誕生地

旧久保田家住宅

旧久保田家住宅

旧久保田家住宅

旧久保田家住宅

旧久保田家住宅


御成道

御成道には小さな銅像が多くある。
← 田中義一の銅像
田町・御成道
江戸時代、萩城下と瀬戸内海側の港町三田尻(今の防府市)を最短距離で結ぶ街道は、萩往還ととばれていました。萩往還は、萩藩主が参勤交代の際に利用した街道なので、御成道ともいいます。田町は、江戸時代初めからの古い地名で通りの両側に商家の建ち並ぶ商業地として栄えました。
田町は東西に横切る御成道は萩城下のメインストリートとして、昔から参勤交代の行列だけでなく多くの人が行き交う賑やかな通りでした。・・・(現地解説)

田中義一(1864−1919)
近代の軍人、政治家、男爵、藩主の御六尺(かごかき)田中家の三男として呉服町に出生。十三歳のときに新堀小学校の授業性(代用教員)に登録され、萩の乱にも参加したが、のち璃陸大に進学した。大正七年以降陸軍大臣、次いで大将に進み、再び陸軍大臣となる。大正十四年政友会総裁に就任、昭和二年内閣総理大臣となり、外務大臣、拓務大臣をも兼務した。(現地解説)


旧湯川家屋敷

旧湯川家屋敷
旧湯川家屋敷
松本川から樋門を開いて取水し、萩城下新堀川まで水を通す。この水路は昔は大溝といったが、幕末に(現地解説)

桂太郎
桂太郎は、1847年(弘化四年)に萩城下平安古(ひあこ)に生まれ、三歳の時に川島に移り住んだ。明治維新後は政府の要職に就き、1901年(明治三十四年)以来三回にわたって内閣総理大臣をつとめ、国事多難な時期に手腕を発揮した。また教育面にも貢献し、1900年(明治三十三年)に現在の拓殖大学を創立し、国際社会で活躍できる人材の育成に力を注いだ。・・・(現地解説)

桂太郎旧宅

桂太郎旧宅

桂太郎旧宅・桂太郎公銅像

第26代内閣総理大臣 旧田中別邸
旧田中別邸の主要建物の骨格は、萩に夏みかん栽培をひろめた小幡高政(おばたたかまさ)が完成させ、大正後半から第26代の総理大臣を務めた
田中義一の所有になり、主屋の増改築が行われました。別邸内には、田中義一が陸軍大将時代に身に着けた正装(大将服)など展示物が多数あり、
五松閣と呼ばれる建物から見る河畔の景色は絶景です。また、小幡高政ゆかりの夏みかんなど柑橘類380本が植えてある「かんきつ公園」は無料で
散策できます。(現地解説)

旧田中別邸・大将服


旧田中別邸

旧田中別邸・田中義一大将の写真

旧田中別邸・内閣総理大臣兼外務大臣任命書


旧田中別邸・田中義一の息子田中竜夫の胸像

萩往還トレッキング@ 2016.5.25 に続く




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